勉強を何となく続けてみること
自分自身の長所や短所について自身の心に訊いてみても、釈然としない経験をしたことがある人は少なからず居ると思う。それらは他人に指摘されて実感を伴うもの、という常套句でもある程度真理を付いているのだろう。内省によって得られた結果に懐疑的になってしまう私にとっては、その傾向が特に強い。私の場合は、「先生は勉強が好きですよね」と不特定多数の人に言われて初めて、「俺って勉強のことが好きなのか?」と思索し始めた。そして、他人を観察して漸く「一理あるかも」と多少の説得力を宿したのだった。
何かを好きである理由を説明するときは、ほぼ後付けになってしまう。これは自分が好きだと思っていたものが継続できるのではなく、習慣になって初めて好きかもと気付くからである。例えば、趣味は無意識に形成されるものだ。趣味として認識した頃には、それは既に立派な趣味へと昇華している。一方でそれを始めた契機を思い返してみても、その時の心情を正確に伺い知る術はない。
総括すると、他人からの「私は勉強が好き」という評価は文字通りに受け取った方が良いと思われる。「なぜ私は勉強が好きなのか」という問に解を出そうとしても、補遺にしかならないからだ。もしかしたら、長らく続いている習慣があれば、それは好きないしは性に合っていることと認識すると良いのかもしれない。継続している事実だけを認め、難しく考えること(Overthinking)は止めよう。Overthinkingの殆どは、考え事をしている自分に酔っているだけだ。
私の場合は平たく科学を勉強することが好きな様である。医学の他には、大学受験用の数学問題に取り組むことや、学部生向けの物理学や数学の参考書を紐解くことが多い。後者は大体途中で挫折してしまうが、また気が向いたときに挑戦すればよい程度のモチベーションで何となく続いている。それでも、その知識は確実に世界に彩りを添えている。電線を見てカテナリーだなと思い、駐車場のChainを見て正にCatenaと頷くだけで幸せになれるのだ。
勉強する意義が変化しつつある
最近、勉強を含め趣味を継続していると人が寄って来てくれることに気が付いた。私が筋トレしていると周囲に筋トレを始めて下さる人が現れ、物理をほんの少し勉強していたおかげでMRIを作っている人とも知り合いになれた。私にとって勉強を続ける意義はここにもあるかもしれないと、少し思い始めている。
このモチベーションは、子どもの頃に親に褒められたくて勉強を頑張ったことと似ている。大人にもなり、人の目を引くために勉強するのはナイーブすぎるかもしれない。しかし敢えて言おう、私は承認欲求を満たすために勉強している面もあると。とはいえ趣味を楽しそうに話す人は魅力的に映るものだ。翻って、私自身が楽しげに勉強している限りは自信をもって続けて欲しいと切に願う。
